大八木弘明監督の学生時代から駒澤大学陸上競技部の監督に就任するまでの経歴を紹介します!
さらに学歴と家族構成を含むプロフィールもお伝えしますね!
大八木弘明監督は指導者として多くの選手たちに信頼されていますが、その理由は低迷し落ちぶれていた駒澤大学陸上競技部を甦(よみがえ)らせ学生三大駅伝の常勝軍団へと導きます。
そんな名将 大八木弘明監督を紹介います!
大八木弘明 プロフィール
[大八木弘明監督]
出典 https://toyokeizai.net
名前 | 大八木弘明 |
読み方 | おおやぎ ひろあき |
生年月日 | 1958年7月30日 |
身長 | およそ173cm |
出身地 | 福島県河沼郡河東町 (現在は福島県会津若松市河東町) |
職業 | 小森印刷[現在は小森コーポレーション]社員 川崎市役所職員(川崎市立西丸子小学校に赴任) 株式会社ヤクルト社員 駒澤大学陸上競技部監督 |
出身校 | 福島県立会津工業高等学校 |
家族構成 | 配偶者 大八木京子 長女 大八木亜紀 次女 名前は公表されていません |
大八木弘明 学歴と箱根駅伝の出走記録
[大会で部員と共に走る大八木弘明監督]
出典 http://sutakorasacchan.com
大八木弘明監督の学歴を紹介しますね!
大八木弘明 出身小学校
大八木弘明監督の出身小学校についての情報はありません。
大八木弘明 出身中学校
大八木弘明監督は1971年4月に会津高田町立第一中学校に入学し1974年3月に卒業しています。
会津高田町立第一中学校2007年に統廃合され現在では会津美里町立高田中学校(所在地 福島県大沼郡会津美里町字布才地570)が運営されている。
大八木弘明 出身高校
大八木弘明監督は1974年4月に福島県立会津工業高等学校(所在地 青福島県会津若松市徒之町1-37)に入学し1977年3月に卒業しています。
大八木弘明 出身大学
大八木弘明監督は24歳のときに駒澤大学経済学部2部・夜間部(本部所在地 東京都世田谷区駒沢一丁目23番1号)に入学。
大八木監督は駒澤大学陸上競技部に所属して箱根駅伝に3回出場しています。
[大八木弘明監督の箱根駅伝の走行区間と記録]
箱根駅伝 | 走行区間 | 区間記録 | 区間成績 |
第60回大会 (1984年) | 5区(20.7km) | 1時間12分41秒 | 区間賞 (区間1位) |
第61回大会 (1985年) | 2区(22.7km) | 1時間11分43秒 | 区間5位 |
第62回大会 (1986年) | 2区(22.7km) | 1時間10分00秒 | 区間賞 (区間1位) |
第63回大会 (1987年) | 1947年から1992年まで箱根駅伝への出場は28歳以下という年齢制限が設けられていたので大八木弘明監督は参加できませんでした。 |
大八木弘明 経歴
[大八木弘明監督]
出典 https://www.rikujyokyogi.co.jp
大八木弘明監督の学生時代から駒澤大学陸上競技部の監督になるまでの経歴をまとめて紹介しますね。
大八木弘明 中学校から高校までの経歴
大八木弘明監督は中学3年のときにジュニアオリンピックに出場し3000m競技で5位に入賞。
長距離走選手として自分の能力を自覚し箱根駅伝を走ってみたいという強い思いを秘めていまいた。
先輩が会津工業高校から日本体育大学に進学し箱根駅伝に出場していたので、大八木弘明監督も福島県立会津工業高等学校に進学。
だけど高校時代は実績を残せませんでした。その理由は練習中の疲労骨折による故障と貧血による症状です。
そのため注目を浴びるような競技記録を残すことができず大学からの誘いもありませんでした。
大八木弘明監督は経済的な事情もあり大学への進学は断念することに…。
大八木弘明 高校卒業から小森印刷までの経歴
大八木弘明監督は1977年に福島県立会津工業高等学校を卒業すると小森印刷[現在は小森コーポレーション](本部所在地 東京都墨田区吾妻橋3-11-1)に就職。
小森印刷陸上競技部に所属し実業団の選手として競技を続行し早朝や昼休みに練習を重ね高校時代の疲労骨折による故障も克服します。
大八木監督が過酷なスケジュールをこなす原動力は陸上競技選手としての情熱と箱根駅伝への強い憧れだったんですよね。
入社4年目の22歳のときに『第25回全日本実業団駅伝(1980年)』に出場するとエース区間である6区(23.2km)を走行、区間3位という成績により注目を集め箱根駅伝に出場するという夢に向かって行動を起こします。
大八木弘明 川崎市役所への勤務(川崎市立西丸子小学校に赴任)と駒澤大学進学までの経歴
【大八木弘明監督の事務職員時代(川崎市立西丸子小学校の昭和56年[1981年]卒業アルバムより)】
出典 https://number.bunshun.jp
大八木弘明監督は小森印刷を退社し川崎市役所に就職すると大学受験の勉強を開始!
その理由は箱根駅伝の出場条件は『関東学生陸上競技連盟に加盟している大学』の大学生であることであり、大会に参加するには該当する大学に進学しなくてはいけないからです。
大八木監督は陸上競技の選手であり続けるために、そして念願の箱根駅伝で走行するために川崎市役所で勤務しながらトレーニングと自主勉強をするという過密スケジュールを立てたんですよ。
大八木監督は川崎市の職員として川崎市立西丸子小学校に事務職員として赴任していたんですよ。
放課後に業務を終えるとランニングシャツに短パン姿という競技用ユニフォームに着替え小学校の校庭でダッシュやもも上げを繰り返していたり、リュックを背負って行き帰りの通勤も走り込みをおこなう姿はとてもかっこよく校内で注目を集めます。
そして受験勉強の開始から2年後に箱根駅伝への出場条件を満たす駒澤大学の夜間部に合格し進学します!
大八木弘明 駒澤大学時代の経歴(箱根駅伝の競技記録を含む)
[箱根駅伝で走る大八木弘明]
出典 https://katatosi.com
1983年、大八木弘明監督は24歳のときに駒澤大学経済学部2部(夜間部)に進学すると陸上競技部に所属し関東学生陸上競技対校選手権大会やいくつもの競技大会で好成績を収めます。
そして大八木監督は駒澤大学の選手として念願の箱根駅伝に3回出場します。
- 第60回箱根駅伝(1984年)では5区を走行。記録は1時間12分41秒で区間賞(区間1位)。
- 第61回箱根駅伝(1985年)では2区を走行。記録は1時間11分43秒で区間5位。
- 第62回箱根駅伝(1986年)では2区を走行。記録は1時間10分00秒で区間賞(区間1位)。
- 第63回箱根駅伝(1987年)に大八木弘明監督(当時大学4年生)は出場していません。
第63回箱根駅伝に大八木弘明監督が出場していない理由は1947年から1992年まで箱根駅伝への出場は28歳以下という年齢制限が設けられていたからです。
当時、大八木監督は駒澤大学4年生でしたが28歳という年齢制限の対象になっていたので出場を断念することになったんですよ。
現在では箱根駅伝に年齢制限はありません。
ただし箱根駅伝の予選会及び本戦にエントリーできるのは1人につき4回(4大会)までという規則があります。
同一年度で予選会のみ出場した場合も、予選・本戦両方とも出場した場合も同じく1回(1大会)とカウントします。
大八木弘明 箱根駅伝に出場したときのエピソード
大八木弘明監督は第60回箱根駅伝(1984年)に出場し5区を走行。記録は1時間12分41秒で区間賞(区間1位)という活躍をします。
ですがNHKのラジオアナウンサーが大八木弘明監督の名前を把握していなかったので実況することができないというアクシデントが発生したんですよ。
大八木弘明 駒澤大学での学生生活について紹介します
大八木弘明監督の駒澤大学においての学生生活を紹介しますね。
7:00に起床し小学校で事務職員として勤務。
昼休みは多摩川の土手を8km走る。
夕方に仕事が終わると等々力の(東急)グラウンドで1時間練習。
18:30~21:30まで駒澤大学で授業を受ける。
夕食や日常のやるべきことをおこなうと就寝時間は24:00になる。
毎日、勤務・勉学・トレーニングをおこなう。そして週末と合宿があるときは駒沢大学陸上競技部で練習をする。
大八木弘明監督は駒澤大学での4年間の学生生活を振り返り「よく4年間続けられたと思う。もう一度やれと言われてもとてもできない」と胸の内を明かしていますよ。
大八木弘明 再びの実業団選手時代 そして京子さんとの結婚
大八木弘明監督は駒澤大学を卒業するとヤクルトに入社し実業団の選手として競技を続けながらコーチとしての役割も担当していました。
そして大八木監督は33歳で競技人生を終えると勤め先のヤクルトでコーチに専念します。
その頃、大八木弘明監督は駒澤大学の同期だった京子さんと卒業後のOB会で再開したことをきっかけに交際し結婚します。
そして6年間務めたヤクルトを退社して母校 駒澤大学で指導者としての人生を歩むことになります。
大八木弘明 駒澤大学陸上競技部の指導者としての経歴
[駒澤大学陸上競技部のコーチに就任した頃の大八木弘明]
出典 https://www.cf-seria.com
1995年4月、大八木弘明監督は36歳のときに駒澤大学陸上競技部から「母校を立て直してほしい」と頼まれます。
はじめは引き受けることをためらいますが「母校に恩返しをしたい」という強い思いに突き動かされて母校で指導をおこなうことを決意するんですよ。
大八木監督がコーチに就任する以前の駒澤大学陸上競技部はとても低迷していたので指導をおこなうには相当なエネルギーを必要としたでしょうね。
大八木監督が指導をおこなうことで駒澤大学の成績は飛躍的に向上したんですよ。
1995年4月、大八木弘明監督は43歳のときに駒澤大学陸上競技部の助監督に就任。そして2004年、45歳のときに監督に就任します。
大八木弘明監督の指導力の評価はとても高く、その証拠にコーチ就任の1995年から2021年までに学生三大駅伝である出雲駅伝・全日本大学駅伝・箱根駅伝を通算して24回の優勝を記録しているんですよ。
大八木弘明 監督就任2年後に復路優勝に導いた指導方法とは?
[第97回箱根駅伝の優勝を祝う大八木弘明監督・京子夫人と部員たち]
出典 https://www.chichi.co.jp
大八木弘明さんは駒澤大学陸上競技部のコーチに就任すると生徒たちの食生活と選手としての意識改善に着手します。
選手たちの生活を徹底的に管理することで生徒たちに競技に対する意識の改善を求めたのです。
学生が各自で自炊する体制を廃止し妻の京子さんに寮母を依頼し朝・昼・晩の食事を作ってもらうことで体調管理を徹底し、自分はしっかりと寄り添って指導をおこなうことで大切に生徒たちを育てます。
[大八木弘明監督と京子夫人は協力して部員たちの食事を作る]
出典 https://4years.asahi.com
まるで駒澤大学陸上競技部の部員たちは大八木弘明監督と京子夫人の息子のようですよね。
大八木弘明さんは監督に就任すると1年生は全員丸坊主にします。
陸上競技選手としてさらなる意識改革を生徒たちに求めたのです。
反発する部員ともしっかりと向き合い心を込めて愛情深く指導することで監督就任の2年後には駒澤大学を復路優勝・総合6位に導き、そしてさらなる快進撃に導くことになるのです。
大八木弘明さんが監督に就任する前の駒澤大学は箱根駅伝総合13位という成績なのでその指導力は素晴らしいですよね!
大八木弘明監督の名言
[運営管理車から選手を見守る大八木弘明監督]
出典 https://4years.asahi.com
10区ラスト1km大八木さん最後の声掛け
さあラスト1キロ、いいよ。いいな、最後最後頑張れ頑張れ区間賞区間賞区間賞!
最後もうちょっと頑張れ!いいか、獲るぞ区間賞!
さあ最後最後頑張れ!よーしよーし!最後最後行け!
やったね、やったよお前漢だ!#箱根駅伝 #駒澤大学 #大八木弘明 #漢だろ pic.twitter.com/OFrgmSy4ob— いよだ かずき(だーぴよ) (@iydkzk_daapiyo) January 3, 2021
#箱根駅伝 優勝会見 #駒澤大学 #大八木弘明 監督
「#男だろ」と声をかけるポイントは? pic.twitter.com/DSlv3lyd4U— フジテレビ陸上 (@fujitvrikujo) January 3, 2021
大八木弘明監督の名言と言えば『男だろ!』ですよね!
一生懸命に走る部員たちも過酷な状況では力を失いそうになることも…。そんなときは励(はげ)ましの思いを込めて。
そして最後の追い上げのときにも熱いエールとして『男だろ‼』という大八木監督のの声が響き渡ります。
まとめ
大八木弘明監督の学生時代から社会人としての経歴、そして駒澤大学陸上競技部の監督就任までを時系列でまとめて紹介しました。
ありったけの情熱と愛情を選手に注ぎ込む指導の在(あ)り方は駒澤大学の生徒だけではなく多くの人から尊敬されています。
これからも大八木弘明監督を応援していきます!
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